こころの健康、コミュニケーション、おいしいお店や、映画のことも 

2047

その男が街にやって来た。


オメガスピードマスター



祖父の墓前に婚約の報告をするために。

駅前のホテルにチェックインして、そのままタクシーで旧市街に向かう。新市街にリニアが通る前は賑わっていたのだろう。

表通りの居酒屋で夕食を済ませ、路地に分け入り、指定されたバーを探す。そこはGPSの使えない地域だ。

奇跡のような街区だった。そこだけ再開発を免れていた。蜘蛛の巣のように路地が張り巡らされ、1メートルに満たない路地の両側に、間口の狭い店が立ち並ぶ。その多くはシャッターを下ろしている。育ちの悪いトウモロコシか、手入れを怠った老人の歯のように。

そのバーは路地のドン突きにあった。

躊躇いながら扉を開けると、その隙間からミュートの効いたトランペットの柔らかな音色が漏れ出た。当時はモダンと言っていた古い時代のジャズだ。

カウンターに一人女性が座わり、グラスを磨いている。彼女が経営者だろう。物音に振り返って彼を見た。

広い額。意思の強さを感じさせる尖った顎。30才にも60才にも見える。外見で年齢の目星をつけられなくなったのはいつの頃からだったろう。

体の線を忠実になぞる黒のワンピース。ピンヒールの底からプラチナの鈍い光が覗けた。

彼を認めると彼女は席を立って彼を迎え入れ、カウンターの反対側に回った。棚には曇り一つないグラスが並べられ、背後からの光を透かしている。

「ごめんなさいね、楽屋裏をお見せしてしまって。こちらの方じゃないでしょう?」
「ええ、仕事で。壁の向こうから」

「垢抜けているから、こっちの人じゃないと思った。でもどこか懐かしい顔。こちらははじめて?」
「子供の頃に何度か来ました。母がこちらの出身だったので」

「何をお作りしましょう」
「ウイスキーを下さい。ハイボールで」
「懐かしい飲み方ね。駒ケ岳でいいかしら。昨日実家のシェルターを整理したら出てきたの。知らないでしょう」。

旧市街の中心は2040年の大規模テロによって廃墟と化し、放置されていた。

「それをお願いします」その銘柄は母から聞いたことがあった。
「礼儀正しいのね、まだ若いのに」

底の厚いグラスに、鑿の痕が残る丸い氷を入れ、駒ケ岳を半分まで注ぎソーダで満たす。そこにミルで轢いたグリーンペッパーを散らす。30年前に流行ったスタイルだ。

コースターにグラスが置かれ、彼の手が伸びた。

「綺麗な指。ガラス細工を作ったり、神経と神経をつなぐような」

彼女は彼の手に視線を留め、川底に落としたお気に入りの指輪を見つめる少女のようにそう言った。

彼女には首都で暮らす娘がいる。娘の父親とは籍を入れず、娘は認知もされなかった。その代わりに、二人が暮らすのに十分な金額が今でも毎月口座に振り込まれている。いつもどこか見知らぬ国から。

娘は昨年大学を出て、キー局でアナウンサーとして働き始めた。つまり国家の中枢に入ったということになる。その後、容易には連絡がつかなくなった。

面接での彼女は申し分がなかった。洗練された受け答えも、知識も、脳のf-MRIも、空間認知も、容姿も。もっとも彼女は何一つ経歴を明かさなかった。

会社はありとあらゆる手段で彼女の身辺を探ろうとしたけれど、欠片ほどの情報も掴めなかった。

クレジットカードも使わず、街を一切歩くこともなく、駅にも空港にも、行かないことを意味しているのではないならば、誰かがその存在を消去していることになる。

詳細の分からない人物の入社に人事部は難色を示したが、トップの鶴の一声で採用が決まった。

しばらくして、そちらの筋だと言ううわさが流れ、その後タブーのように誰も彼女の経歴については触れなくなった。

男は大学での基礎研修を終え、不整脈のスペシャリストとしての腕を磨くためにこの春チャイナに渡る。

その前に結婚することに決めた。戦場に向かう兵士のように。

最低2年間は別々に暮らすことになる。彼女には両親はいない。彼が日本にもどるまで結婚のことは伏せておくことに決めた。他に知っているのは彼の母親だけだった。

母は彼に、祖父にだけは結婚の報告をすることを約束させた。祖父は彼が小学校に上がる年に致死性の不整脈で亡くなっていた。当時はその病気は発見されていなかった。だから祖父の記憶はほとんどない。

廃車寸前の揺れるリニアに乗ってわざわざ墓参りさせる理由をいくら母に訊ねても、

「お祖父さんは、あなたそっくりだったから」としか言わない。根負けした彼は行くことにした。その近くで教授が学会で発表する。わざわざ足を運ぶ必要はなかったのだが、最後のご奉公のつもりで行くことに。

そのバーを訪れるように命じたのも母だった。子供の頃の同級生の店だという。2度目の東京オリンピックの年からやっている。まだ壁がなかった時代のことだ。

母のことは黙っておいた。母からは指示されてなかったし、彼にだってちょっとは意地がある。

「お仕事は何をなさっているの?」
彼は留学のために作ったばかりの名刺を渡した。ICチップの付いてない方だ。

「ドクター?」
「ええ、まだ殻の中にいるけれど、春になったら殻を破ろうと思っています」
「何のなぞなぞ?」
「武者修行に出ようと思って」
「誰からそんな昔の言葉を教わったの? 勇ましいのね」
「それで兵役を免除されると思うと、後ろめたい気もしています」

「私も男の子が欲しかった。一杯いただいてもいいかしら」。

棚から背の低いグラスを取り出して、駒ケ岳を注いだ。かつて駒ケ岳とよばれた山岳地帯は政府から立ち入りが禁じられ、衛星写真も撮ることができない。特殊な軍事施設があるのだと巷では囁かれている。

「あなたにそっくりな手をした人がいた。世の中が今みたいに不自由になる前。街で一番のいい男だった。街の女はみんな夢中になった。親友のお父さんだったの。だから私はちょっとだけ有利だった」、深い海の底を見通すようにそう言った。

「昔話は退屈ね。どんな武者修行をするの?」
「不整脈の治療ではチャイナが一番進んでいるんです。鼓動を作り出す心臓の細胞を生まれ変わらせる、というか、新しく作って移植するんです。退屈な話ですね」

「鼓動を産み出す? 私にも胸が高鳴った時があったわ」

「この指を見て」、彼女は意を決するように右の小指を彼の目の前に翳して、動かして見せた。

「精巧でしょう。日常生活には何の不都合もないけれど、でもダメなの。少なくともショパンコンクールではピアノを弾けなくなった。あなたの指を見ていたら嫉妬してしまったの。ごめんなさい」
「僕の指は野蛮です。何匹もの実験動物の血が滲んでいます」

「もう行かなきゃ」

彼は腕時計を見た。それ以上ここにいると、引き返すことができなくなると、胸騒ぎが彼に伝えたからだ。それに、これで母親との約束は果たした。

「ごめんなさいね。初めてなのに変な話をして。一つだけ教えて、その時計何ていうの?珍しい時計でしょう」

彼女はこの質問を最初からしたかったのかもしれない。

「祖父の形見です。20才の時に母から渡されました。祖父の生まれた年に作られたそうです。名前は忘れました。手巻きです。今時、時計を使っているのは昔の医者か役者さんくらいですよね」

胸にさざ波が立ち、彼女を過去へといざなった。なかったはずの小指の先に小さな棘が触れた。

「ちょっと見せてくださらない」
「この時計ですか? 古いだけの時計ですよ」彼はいぶかしげに時計を外した。

彼の手から時計を受け取り、彼女は一瞬ためらってから、思いきって裏返した。

傷だらけのケース・バックの縁に60th anniversary と記されていた。

棘が指先の皮膚を破り、裂け目から血が滴った。

忘れるはずがない。彼女が時計師に頼んで刻んだものだ。記憶の奥底に沈め、重い蓋をしてきたけれど。

「さなちゃんの形見の品です。さなちゃんって祖父のニックネームです。子供みたいですよね。母や親戚がみんなそう呼んでいました。60才の祝いだったそうです。還暦と言うのでしたっけ。二十歳の祝いに母から渡されました。3分の1還暦だねと」

時を刻む古い時計の音が彼女の鼓動と重なり、やがて大聖堂の鐘のように鳴り響いた。

「少しの間、握っていさせて」

「古い時計を握っていると若返るの。昔、そういう言い伝えがあった」彼女は小さな嘘をついた。

「実は、今度結婚するんです。でもみんなには秘密です」
「秘密? ロマンチックね」
「彼女はちょっとした有名人なんです」
「秘密じゃなかったの?」
 「本当は、明日さなちゃんのお墓でこのことを報告することになっていたんですけど、今やめました」
「どうして?」
「お墓なんて、縁起が悪いですよ。さなちゃんの時計を握っていてくれるママさんに報告したからそれでいいです」

「嫌ねえ、私をお墓扱いにして、

でも30年位若返った気持ちになったわ。ありがとう」



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ドクターサナギ

Author:ドクターサナギ
「あさなぎクリニック」心療内科・精神科・メンタルクリニックの医師です。反田克彦(そりた・かつひこ)と申します。クリニックは山梨県甲府市の蓬沢町にあります。国道20号(甲府バイパス)の近くで、石和や八代(笛吹市)や甲州市からも、大月や都留、南アルプス市や韮崎、北杜市からのアクセスも良好です。臨床心理士によるカウンセリング、うつ病の復職支援施設・リワークポルト、あさなぎカフェも併設されています。

本を読んだり、音楽を聴いたり、昔の映画を見るのが好きです。どうぞよろしく。

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