さなぎ日記:あさなぎクリニック心療内科のブログです。こころの健康、コミュニケーション、おいしいお店や、映画のことも。

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偽善のすすめ   ~ノブレス・オブリージュ

偽善のすすめ   ~ノブレス・オブリージュ サムネイル画像
偽善にとても敏感な時代がありました。10代の終わり頃です。理念的にものを考えると、それに対して偽善じゃないかという内心の声がするのです。その時の結論は、偽善でもいいというものでした。偽善は少なくとも善を意識している。偽善も徹底すれば善と区別がつかなくなるというものでした。露悪趣味は何も生み出さないと。<そういう問題意識があったのはこの頃だけです。その後これはちょっとナイーブな考えだと思い直し、日本...全文を表示
偽善にとても敏感な時代がありました。10代の終わり頃です。理念的にものを考えると、それに対して偽善じゃないかという内心の声がするのです。

その時の結論は、偽善でもいいというものでした。偽善は少なくとも善を意識している。偽善も徹底すれば善と区別がつかなくなるというものでした。露悪趣味は何も生み出さないと。

<そういう問題意識があったのはこの頃だけです。その後これはちょっとナイーブな考えだと思い直し、日本的な露悪趣味へと自然に移行しました>

夏目漱石は「こころ」のなかで「偽善者でもなんでもいい、表面を作ると言うことは内部を改良する一種の方法である」と言っています。「日本人は偽善を嫌うあまり露悪的になっている」とも。これは今でも変わらないでしょう。

日本的な感覚からすると欧米人は偽善的に見えます。ノブレス・オブリージュ(=高貴なる者の義務)は、財産、権力、社会的な地位を保持するものには責任が伴うということです。キリスト教的な考えです。

たとえばパールハーバーの記念館などでも、あるいは空港でも、外から中が見えるような形で募金を募っています。欧米系の航空会社ではCAが募金を集めることがあります。

何度か募金したことがあります。日本では出来ません。「偽善的」という声が聞こえてきそうで。


善とは、実は偽善のことではないかと思います。あらゆる理念を追求する過程では、現実的には理念とそぐわない事態が起こるはずです。リアルな世界では。善だけを行っていたのでは現実は動かないわけです。

おそらくアメリカで公民権運動をすすめた人々にも、その運動の過程では理念だけではどうにもならない事態があったでしょう。

偽善的な行為を徹底して、それが実現した時にはじめてその偽善的な行為な善になるのではないでしょうか。


これまでにも書きましたが、僕はこのブログを書くにあたり、「これって、偽善的じゃないの? もっともらしいことばっかり書いて」という内心の声を無視しています。(=ブログ人格)図らずも、何十年振りかで偽善的な人間になっています。これは実に発想の転換でした。

患者さんに、まず歯を治そうとか、きちんとした格好をしようというのは、言ってみれば偽善のすすめだと思います。

それでいいと思います。漱石もバックにいることだし。

ということで、みなさん恐れることなく、偽善者になりましょう。

<現在は「臆面もない善」ということ方が問題かもしれません。その内これについて書くかもしれません>



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偽善にとても敏感な時代がありました。10代の終わり頃です。理念的にものを考えると、それに対して偽善じゃないかという内心の声がするのです。

その時の結論は、偽善でもいいというものでした。偽善は少なくとも善を意識している。偽善も徹底すれば善と区別がつかなくなるというものでした。露悪趣味は何も生み出さないと。

<そういう問題意識があったのはこの頃だけです。その後これはちょっとナイーブな考えだと思い直し、日本的な露悪趣味へと自然に移行しました>

夏目漱石は「こころ」のなかで「偽善者でもなんでもいい、表面を作ると言うことは内部を改良する一種の方法である」と言っています。「日本人は偽善を嫌うあまり露悪的になっている」とも。これは今でも変わらないでしょう。

日本的な感覚からすると欧米人は偽善的に見えます。ノブレス・オブリージュ(=高貴なる者の義務)は、財産、権力、社会的な地位を保持するものには責任が伴うということです。キリスト教的な考えです。

たとえばパールハーバーの記念館などでも、あるいは空港でも、外から中が見えるような形で募金を募っています。欧米系の航空会社ではCAが募金を集めることがあります。

何度か募金したことがあります。日本では出来ません。「偽善的」という声が聞こえてきそうで。


善とは、実は偽善のことではないかと思います。あらゆる理念を追求する過程では、現実的には理念とそぐわない事態が起こるはずです。リアルな世界では。善だけを行っていたのでは現実は動かないわけです。

おそらくアメリカで公民権運動をすすめた人々にも、その運動の過程では理念だけではどうにもならない事態があったでしょう。

偽善的な行為を徹底して、それが実現した時にはじめてその偽善的な行為な善になるのではないでしょうか。


これまでにも書きましたが、僕はこのブログを書くにあたり、「これって、偽善的じゃないの? もっともらしいことばっかり書いて」という内心の声を無視しています。(=ブログ人格)図らずも、何十年振りかで偽善的な人間になっています。これは実に発想の転換でした。

患者さんに、まず歯を治そうとか、きちんとした格好をしようというのは、言ってみれば偽善のすすめだと思います。

それでいいと思います。漱石もバックにいることだし。

ということで、みなさん恐れることなく、偽善者になりましょう。

<現在は「臆面もない善」ということ方が問題かもしれません。その内これについて書くかもしれません>



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