さなぎ日記:あさなぎクリニック心療内科のブログです。こころの健康、コミュニケーション、おいしいお店や、映画のことも。

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堀内恒夫

堀内恒夫 サムネイル画像
堀内恒夫さん(以下敬称略)は、山梨県の甲府商業高校出身です。1965年の第1回ドラフト会議で、巨人に1位指名されて入団しました。ドラフト制度は巨人があまりにも強かったので、戦力の均衡をはかるために導入されました。開幕から負けなしの13連勝でした。度肝を抜かれました。高卒でプロに入ったばかりの18才が、いきなり4月にデビューして勝ち続けたんですから。大人たちはそれこそ熱狂していました。その年は16勝を記録して、...全文を表示
堀内恒夫さん(以下敬称略)は、


ほりうちつねお


山梨県の甲府商業高校出身です。

1965年の第1回ドラフト会議で、巨人に1位指名されて入団しました。ドラフト制度は巨人があまりにも強かったので、戦力の均衡をはかるために導入されました。

開幕から負けなしの13連勝でした。度肝を抜かれました。高卒でプロに入ったばかりの18才が、いきなり4月にデビューして勝ち続けたんですから。大人たちはそれこそ熱狂していました。

その年は16勝を記録して、最優秀防御率(1.39)、最高勝率(.88)、沢村賞、新人王とタイトルを独占し、翌年からエースナンバーの18をつけました。

個人的に一番印象的なのは、3打席連続ホームランです(1967年)。震えました。しかも同時にノーヒットノーランを達成。本人は、4打席目にセンター前ヒットを打って連続ホームランの記録が途切れるまでノーヒットノーランということを知らなかったそうです。「あーあ、しょうがねえ、じゃあノーヒットノーランでもやるか」と思ったそうです(いやはやとんでもない、甲府の子天狗、悪太郎でした)。

引退試合の最後の打席もホームランでした(みんなが、ホリまで打順を回せと打線をつないだそうです)。これも凄いですよね。

日本シリーズで一試合に2本ホームランを打ちました。オールスターには9回出場して、通算防御率は1.44(20イニング以上で歴代1位)でした。まさしくお祭り男でした。

堀内にとって気の毒だったのは、巨人に入ったことではないでしょうか。

ピッチャーならあの超強力な巨人打線を抑えたかったでしょう。金田も村山も江夏も、王や長島との対決に命をかけていましたから。

一方、強力打線をバックにした堀内は、防御率2.91で26勝を上げました(1972年のMVPでした)。「才能だけで野球をするタイプ」(ご自分でそうおっしゃっています)の堀内は、すっかり安心して遊んじゃっんだろうと思います。寮の門限破りの罰金が、給料を超えたこともあるそうです(By Wikipedia)。防御率も新人の時が最高でした。

ですがよくよく考えると、巨人一筋で大きな怪我もなくコンスタントに勝ち星を上げて、200勝(巨人一筋で200勝した投手は堀内と中尾碩志だけです)って凄いですよね。高橋一三(左のエース。2009年から山梨学院大学の野球部監督です)や城之内の方が、ずっと安定感があったように見えたのですが。


<堀内恒雄さんの実家は、裕福な製糸工場でした。私が子供の頃に住んでいた家と同じ町内です。お母さんが堀内さんについて東京に行ってしまって、寂しかったのでしょう、少々お酒を飲んだお父さんから夜よく電話がありました。わが家(医院)には以前、お父さんの工場で働いていた方が働いていました。堀内さんの高校の先輩からは、高校時代の武勇伝をよく聞きました。そんなこともあって、子供の頃は大の巨人ファンでした>

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堀内恒夫さん(以下敬称略)は、


ほりうちつねお


山梨県の甲府商業高校出身です。

1965年の第1回ドラフト会議で、巨人に1位指名されて入団しました。ドラフト制度は巨人があまりにも強かったので、戦力の均衡をはかるために導入されました。

開幕から負けなしの13連勝でした。度肝を抜かれました。高卒でプロに入ったばかりの18才が、いきなり4月にデビューして勝ち続けたんですから。大人たちはそれこそ熱狂していました。

その年は16勝を記録して、最優秀防御率(1.39)、最高勝率(.88)、沢村賞、新人王とタイトルを独占し、翌年からエースナンバーの18をつけました。

個人的に一番印象的なのは、3打席連続ホームランです(1967年)。震えました。しかも同時にノーヒットノーランを達成。本人は、4打席目にセンター前ヒットを打って連続ホームランの記録が途切れるまでノーヒットノーランということを知らなかったそうです。「あーあ、しょうがねえ、じゃあノーヒットノーランでもやるか」と思ったそうです(いやはやとんでもない、甲府の子天狗、悪太郎でした)。

引退試合の最後の打席もホームランでした(みんなが、ホリまで打順を回せと打線をつないだそうです)。これも凄いですよね。

日本シリーズで一試合に2本ホームランを打ちました。オールスターには9回出場して、通算防御率は1.44(20イニング以上で歴代1位)でした。まさしくお祭り男でした。

堀内にとって気の毒だったのは、巨人に入ったことではないでしょうか。

ピッチャーならあの超強力な巨人打線を抑えたかったでしょう。金田も村山も江夏も、王や長島との対決に命をかけていましたから。

一方、強力打線をバックにした堀内は、防御率2.91で26勝を上げました(1972年のMVPでした)。「才能だけで野球をするタイプ」(ご自分でそうおっしゃっています)の堀内は、すっかり安心して遊んじゃっんだろうと思います。寮の門限破りの罰金が、給料を超えたこともあるそうです(By Wikipedia)。防御率も新人の時が最高でした。

ですがよくよく考えると、巨人一筋で大きな怪我もなくコンスタントに勝ち星を上げて、200勝(巨人一筋で200勝した投手は堀内と中尾碩志だけです)って凄いですよね。高橋一三(左のエース。2009年から山梨学院大学の野球部監督です)や城之内の方が、ずっと安定感があったように見えたのですが。


<堀内恒雄さんの実家は、裕福な製糸工場でした。私が子供の頃に住んでいた家と同じ町内です。お母さんが堀内さんについて東京に行ってしまって、寂しかったのでしょう、少々お酒を飲んだお父さんから夜よく電話がありました。わが家(医院)には以前、お父さんの工場で働いていた方が働いていました。堀内さんの高校の先輩からは、高校時代の武勇伝をよく聞きました。そんなこともあって、子供の頃は大の巨人ファンでした>

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